生涯成績.62勝11敗1引き分け


今日は此の方の世界戦を紹介しよう.・関光徳

キングピッチラモスサルディバル1サルディバル2ウィンストン

原田、海老原、青木選手よりも少し早くトップに踊り出たのが関 光徳
プロデビューは昭和34年上背があり一寸細く骨がごつごつと出て居
て此れで本当に強いのかと、半身半疑で彼の試合を新聞、街頭テレ
ビ等で見て細いけれど凄い強打で私を魅了した。戦跡を見て見ると
此れはびっくり74試合もやって62勝して居る、負けは11で半分以
上もKO負けでした。でも日本人では彼ほど試合をこなしては居ないの
で凄いよ、一年に11試合した時があった。だって最初の挑戦はフライ
級でキングピッチ最後はフェザー級全く凄いですよ、今振り返って見
ると、あの体でフェザーでも未だ痩せていた。だから最初は素晴らしい
がスタミナが続かなく一発食うと崩れて行った。しかし好きな選手・・・

キングピッチに挑戦、スピードがない


ポーン ・ キングピッチ ×関光徳
昭和36年6月27日 . フライ級
東京 ・ 蔵前国技館 . 判定 15回 .ポーン ・キングピッチ
ポーンは、あのペレスを破って王座につき、リターン・マッチでもペレス
をTKOで下して居る。対する関は、弱冠19歳のホープ。時期尚早の声
もあったが、素質を買われ、日本・東洋を飛び越えいきなり世界に挑ん
だ。勝負は、試合前に決していたと言ってよい。一月半に20キロという
死の減量を強いられた関は、試合の一週間前、脱水状態におちいり、
ふらふらの体でリングに上がる。「5ラウンド以後のことは、はっきり憶
えて居ない」という関は、10回に左ストレートで王者をたじろがせたのが
唯一の見せ場だった。 ポーンは、右アッパーで挑戦者を痛めつけ完勝
減量の失敗を痛感した関は、以後バンタム、フェザーとウエイトをあげて
戦う事になる。

6回ラモスの強烈な右ストレートでダウン


シュガー ・ ラモス × 関光徳
昭和39年3月1日 フェザー級
東京 ・ 蔵前国技館 .6回 KO .シュガー・ラモス
ラモスは、リングで二人の人間を殴り殺した男である。一人はかって
高山一夫と激戦を演じたムーアだったため、試合前から”殺人パンチ”
は恐怖の的となっていた。関は、3年前のキングピッチ戦以来、2度目
の世界挑戦。この試合の直前、カシアス・クレイが大番狂わせで、
ヘビー級王者になったことから、関にも期待がかけられたが、実力は
歴然としていた。キューバ人の王者は、逞しく発達した上体を揺すりな
がら前進。関は足を使ってラモスの強打をかわして居たが、6回とうと
う捕まって仕舞う。打ち下ろすような右ストレートで2度のダウン。
すぐさま挑戦者コーナーのセコンドがリングに飛び込み、棄権を申し出
た3度目の惨劇を恐れての事だった。凄いパンチで恐ろしかった。

関の右フックでダウンが・


V・サルディバル × 関 光徳
昭和41年8月7日 フェザー級
パナマに遠征して. 判定 15回 .V・サルディバル
日本の左の強打者がメキシコの左の英雄に挑戦するので現地迄飛
び15回戦った。パナマは地元では、ないので関に応援が多く勇気つ
けられて幸先の良いスタートをきった。序盤は面白い様に関の左フッ
ク、右ストレートと当たる度に観衆が関を応援し見事右フックが当たり
サルディバルたまらず。ダウン「此れならいける」と誰もが思って居た
が最後迄詰められず、逆に中盤一発食うとふらふらとなり、あわやこ
れまでと、思う・・・何とかクリンチで逃げて最終ラウンドを迎える。
関のチームでは、判定で勝って居たと言って居たが結局サルディバ
ルに強打の応酬で見ごたえのある試合であったが、敗戦を喫す。

サルディバルの右が当たり関危ない


V ・サルディバル × 関 光徳
昭和42年1月29日 . フェザー級
メキシコの現地で挑戦 . KO 7回 . V・サルディバル
日本で初めて衛生を使って生放送を現地から行った。前回の試合は
自分が勝って居たと思っている関は積極的に攻めて此れはと思って
見て居たが、持ち前の右フックの強打で倒そうという意識が強く・・・・
足を使わず、正面から打ち合いに行った。やはり右のジャブが出ない
叉フックも出ず、只振り回してそこを上手く衝かれ7回強烈な右でぐら
つき追い討ちを掛けられ、急にスタミナ切れでダウン立って直ぐに・・
レフリーの判断でKO負けに前回のすっきりしない試合も型を付けられ
て仕舞った。関の試合は、自分の強打に溺れて打ち合いをして・・・

ハワード・ ウィンストン ×関光徳
昭和43年1月 23日 フェザー級
現地イギリスに遠征して TKO 9回
サルディバルに2度挑戦して目的を達成出来ず、今度はウィンストンに
挑戦する、国内東洋の選手には殆ど負けず精力的に試合をこなして
来たが、関もこの試合で最後に成ろうとは自分でも考えて居なかったと
思う、やはり何時の様に前半は良いが中盤から何時もの様に打たれる
と急にスタミナが落ち連打をされてマットに沈んだ。もうこの時に西城が
洋行帰りでアメリカからフェザー級のベルトを持って帰国した。さらに・・
小林・西城・沼田と頭角を現わし関の時代も終わりをつげた。

プロで11年間活躍して世界の頂点には立つことは出来なかったが、
白井選手の後に出てきた期待の星であった。ハードな試合をこなして
ハードパンチャーとして我々の夢であった、もっと上でも良かったので
はと、常々思っていました。今は、「横浜光ボクシング」ジムの会長と
して「畑山 隆則」を育てて世界の頂点を極めた。畑山には会長の分
迄頑張って長く防衛して貰いたい。

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