今日は、日本のボクシングの原点「ピストン堀口」を紹介します。
今回下野新聞に掲載されました写真、文を引用させて頂きました。

名前は殆どの方がご存じですが、その先は誰も知らない。郷土の
スター驚異的なピストンラッシュは、列島を熱狂の渦に巻き込んだ
と・・・上の写真は堀口昌信さん(息子さん)の提供です。栃木の方だけ
にこの記事を読んで貰うだけでは、もったいない・・・・・・

ピストン堀口は・・・・・

ピストン堀口は、次の様な多くの日本記録を持つ176の公式戦、138勝
82KO。1933年のデビュー戦から37年迄の47連勝。そして一度もKO負
けが無い。戦中のボクシングは44年3月の国防献金試合を最後に途絶え
堀口はリングから遠ざかった。「世界チャンピオンの肩書きこそ無いが対
戦の機会に恵まれてさえ居れば、間違いなく世界の頂点にいただろう
とボクシング関係者の多くが口を揃える。
堀口の級友、螺良 仁さんは・・・・
「さすが堀口だ」会場にどよめきが走った。約70年前、螺良 仁(84)は=
芳賀町下高根沢、当時、旧制中5年=イガグリ頭にランニング姿で急造
リングに立つ、汗まみれの親友が眩しかったと。
「一本で終わりの柔道より、死ぬまで戦える拳闘がいい。俺は拳闘で世
に出る」
この時渡辺の目に留まった堀口は上京し、渡辺勇次郎が経営している
東京・目黒の日本拳闘倶楽部の門を叩いた。他の練習生の3倍近い猛
練習に加え、激しくゆれる電車の中での爪先たち、皮膚を鍛えると言っ
ては砂で体を擦っていた。クラウチングスタイルで相手の懐に飛び込み
ボディーへの連打から空いた顎にストレートを放つ、一瞬も休まずに繰り
返すピストン戦法、天性の才能もあるが鬼気迫る特訓で鍛え上げた鋼の
体があればこそだった。堀口は上京から一年後、18歳でフェザー級から
デビュー。キャリア僅か数戦目で当時史上最強のハードパンチャーとうた
われた先輩ボクサーをTKOで仕留め、日仏の強豪が激突した対抗戦で
は元世界王者と引き分けた。更に世界ランク一位の比国ボクサーを圧倒
瞬く間に時代の寵児になった。
「彼の様な偉大な選手は二度と現れないでしょう」歴史に名を残す日本
のボクサーの全てを見てきたボクシング評論家の第一人者で大田原市
出身の郡司 信夫(90)=2月11日死去=は語った。
どんなに打たれようが、眉一つ動かさず突き進む、出口の見えない戦争
に突入して行く暗黒の時代にあって、ひたすら前に出る堀口の戦い方は
民衆に勇気と一種の壮快感さえ与えた。”すさましい人気「ホリグチー、
ホリグチー」3万からの観衆は総立ち「ワッショ、ワッショ」とラッシュ戦法

に我を忘れて熱狂したんです”(郡司)
この記事の中には、息子さんは父の意外な反面も言っておられる。
日記の中に堀口が書き綴ったのは、やはり孤独との戦いを克明に記録
し苦しんでいたことを知って貰う事が堀口を分かる事だと・・・・

英雄、堀口はJR東海道線・茅ヶ崎ー平塚間。堀口最後の地に立ってみ
た。住宅地の間の小高い土手の上を線路が走る。堀口は1950年10月
24日の深夜、電車を乗り越して平塚から自宅のある茅ヶ崎へ線路を歩
いて帰る途中に、ここで急行列車にはねられた。享年36歳リングを降りて
半年後であった。未だ沢山ありますが此れでわかったのではと思う。

.