tyousen

あの時の思い出を聞いてね

白井選手がタイトルを失ってから8年が経った昭和37年日本の国は
高度成長に入って私もサラリーマンに就職して所得倍増の掛け声
に生産に全力をあげた。そんな中又今回も負けか・・・と皆が思った
会社帰りの電器屋さんのテレビを道路から皆と見た記憶が有る。
我らの声援が届いたのか原田が国民の暗い気持ちを吹き飛ばし
てくれた。

ポーン1 ポーン2 ジョフレ1 ラドキン ジョフレ2
メデル カラバロ ローズ ファメション ファメション

1回原田の右が顎に、嵐の様な連打

原田の連打は機関銃のようだ

ポーン・キングピッチ×ファイティング原田
昭和37年10月10日 . フライ級
東京 ・ 蔵前国技館 .11回 KO. ファイティング原田
待望久しかった世界タイトルが、8年ぶりに戻って来た。それを実現
したのは、未だあどけなさを残す19歳の原田で有る。1ラウンドのゴ
ングと同時に、原田は勢い良くコーナーを飛び出し、ラッシュを仕掛け
た、意表を衝かれたポーンは何時もの冷静さを失い、打激戦に巻き
込まれる。原田の攻撃は回を追う毎に力強さを増し、王者を圧倒11
回コーナーに詰まって約80発もの連打を受けたポーンは、座り込む
様にダウン、其の侭カウント・アウトされた。新王者誕生の瞬間、蔵前
国技館は熱狂したファンの大歓声に包まれ、座布団が乱れ飛ぶ。
「当たって砕けろという気持ちでいったのが、良かったんだね。調印式
の時小馬鹿にされてから、この野郎と思ってやった。KO出来て、さっ
ぱりした感じだったね」。史上最年少のフライ級王者と成った原田は、
やがて日本を代表する名ボクサーに成長する。

ファイティング原田×ポーン・キングピッチ
昭和38年1月12日 . フライ級
タイ ・ 現地にて . 判定 15回 . ポーン・キングピッチ
あれから3ヶ月王者の原田はタイに飛んで暑い現地でリターンマッチ
を行うが、あの時のポーンでは無かった。原田のラッシュを上手く避け
ベテランぶりを発揮して原田のスタミナ切れを待って点数を稼いだ。
残念にもタイトルを置いて帰った。あの当時は世界チャンピオンは一人
今はWBA,WBC,IBF,WBO,等沢山有って又階級も今の半分で有る・・・
だから今デラホーヤがスーパースターと騒がれて居るがどの挑戦者も
始まって直ぐ世界一位の挑戦者が1ランドKO負け、こんな事は当時は
無かった、ジョー・メデルの様に万年一位で終わった、今のレベルが
低く比較されても仕方ない。私もそう思う・・・・・・

原田は闘志でジョフレを圧倒した

まさかジョフレに勝てるとは

エデル・ジョフレ×ファイティング原田
昭和40年5月18日 .バンタム級
愛知 ・ 愛知体育館 . 判定 15回. ファイティング原田
「奇跡を見た!」 翌日のスポーツ紙は、こう報じた。それ程原田の勝
利は絶望的と見られて居た。王者は、あの”黄金のバンタム”ジョフレ
昭和38年来日して青木を倒してからも無敵の強さを誇り、47連勝37
KO。この時も16連続KOの快進撃を続けている。「でも恐いと思ったこ
とは一度も無かったな、同じ人間が同じ目方でやるんだもん。勝てな
いわけはない」。原田はゴングと同時に、ずんぐりした体を弾ませなが
らジョフレに突進した。このラッシュをさばいて居た王者の顔が、4回に
一変する。原田の右アッパーがガードの隙をぬって顎に炸裂、ジョフレ
がロープ際迄飛ばされたのだ。が、王者も次の回、カウンターの左フッ
クで原田をよろめかす。逆転又逆転のスリリングな攻防は最後迄続き
2対1の僅差の判定で原田の手が上がった。 原田は、フライ級に続く
2階級制覇で、日本人初の快挙。この一戦を「日本ボクシング史上最
高の試合」と見る専門家は多い。ジョフレの他の試合を見れば解る。

しそうな視線を原田に向けるラドキン

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すっきりしない勝ちかたであったが

ファイティング原田×アラン・ラドキン
昭和40年11月30日 . バンタム級
東京 ・ 日本武道館 . 判定 15回 . ファイティング原田
原田の初防衛戦の相手は、「ビートルズの国から来た挑戦者」だった
ビートルズの4人と同じリバプール出身のラドキンは、ビートルズの熱
狂的なファンと言い、自らもマッシュルーム・カットにしている。異色の
対決はファンの人気を呼び、プロ野球日本シリーズ巨人対南海戦一
試合の興行収入を上回った。だが試合は、盛り上がりの少ない凡戦
となる、唯一のヤマ場は、初回、右アッパーのボディブローで、挑戦者
がスリップ気味のダウンを喫したこと。王者は初防衛戦の緊張からか
攻撃が単調で、クリンチ・ワーク意外に決め手のないラドキンを最後迄
もてあます。ともあれ、原田は白井以来、実に11年ぶりで日本人によ
る王座防衛に成功した。

15回終了二人は抱き合った

黄金のバンタムジョフレは迫力は凄い

ファイティング原田×エデル・ジョフレ
昭和41年5月31日 . バンタム級
東京 ・ 日本武道館 . 判定 15回 . ファイティング原田
原田には、リターン・マッチの苦い記憶が有る。キングピッチを破って
手にしたフライ級王者を、僅か3ヶ月後に奪還されて仕舞ったのだ。
しかし、今回は違った、「タイトルを取った試合に比べれば楽でしたよ
自信と余裕があったからね」 原田は序盤の劣勢をボディ攻撃で挽回
14、15回には猛ラッシュをかけ、決定的なポイントを奪う。瞼は腫れ
無残に腫れ上がったジョフレの顔にはもはや”黄金のバンタム”の面
影は無かった。原田は再戦の鬼門を突破し、安定王者の道をたどり
始める。それから17年後原田とジョフレは、ニューヨークで再会する
国連ビルで開かれた歴代名選手の表彰式に、二人は招待されたの
だった、「再会を抱き合って喜び合ったよ、やっぱりジョフレは人間と
して好感の持てる人だもの。「オハヨウ」「コンニチハ」と知ってる限り
の日本語で話かけてくるんだ。言葉がわかったらどんなにうれしい
のにと思ったよ」。

右瞼を切り血まみれの「根性の勝利」

前回のKO負けは凄い一発で

ファティング原田×ジョー・メデル
昭和42年1月3日 . バンタム級
愛知 ・愛知体育館 . 判定 15回 ファイティング原田
この試合の四年前、原田はこのメデルに初のKO負けを味わされてい
る、ラッシュしてくる原田を、見事な左フックのカウンター一発で捉えた
メキシカンの技の冴えは、”ロープ際の魔術師”の異名に相応しかった
再戦のこの試合、原田はメデルのカウターを警戒して、何時になく慎重
だった、執拗なボディ攻撃で着々とポイントをあげながら、クリーンヒット
した後も深追いをしない。誘いに乗って来ない王者に業を煮やした、
メデルは、自ら打ち合いに出、10回と15回には左右フックで、原田の
腰を落とした。だが原田は、メデルがカウンターを打てないインサイドに
潜り込み、連打で反撃、文句無しの判定勝ちで最強の挑戦者を退ける
”無冠の帝王”と呼ばれたメデルは敗れたが、その後も度々日本のリ
ングに上がり、引退後は一時、日本のジムでトレーナーをした事も有る
3年位前私が後楽園ホールに葛西の試合を見に行った時偶々メデル
が若者を連れて来て試合の指導をしていた、素晴らしいメデルの試合

1回右フックでダウンを奪うが・・・・・

この試合は減量との戦い

ファイティング原田×ベルナルド・カラバロ
昭和42年7月4日 . バンタム級
東京 ・ 日本武道館 . 判定 15回 . ファイティング原田
予想は 「原田不利」が大半だった。南米コロンビアから来たカラバロ
は、世界2位の難敵。おまけに、もう一つの敵が有った。減量である
原田は練習中、夏にも拘わらずストーブを付け、毛のトレーニングウエ
アを着込んで、何とかウェイトを 落としたが、其の無理が試合にも出る
1ランド、幸先良く右フックでダウンを奪ったものの、動きに切れがなく
挑戦者の右アッパーで何度も前進を阻まれる。カラバロにパンチ力が
ない為助けられたが、最後まで変則的なボクシングを捉えられなかっ
た、判定は3対0、原田は此れで白井と並ぶ4度目の王者防衛に成
功し、名実ともに一流王者の仲間入りを果たす。

量に苦しんだ原田判定負けを喫す

あの強敵を退けた原田であったが

ファイティング原田×ライオネル・ローズ
昭和43年2月27日. バンタム級
東京 ・日本武道館 . 判定 15回 . ライオネル・ローズ
原田の敗北は、意外な時にやって来た。挑戦者はオーストラリアの
アポリジニーで、この時迄全くの無名選手、ジョフレ、メデル、カラバロ
といった強豪を降して来た原田は、軽い相手と見られた。しかしローズ
は未だ20歳とは思えなぬ程の落ち着いた試合運びを見せる。王者の
ラッシュを軽やかなサイド・ステップやクリンチ・ワークでかわし、鋭い
左ストレートをつく。原田は闘志が空廻りしている様で、9回右フックを
受け片膝を付くダウンを喫し、益々焦りの、色が濃くなる。ローズ
は後退しながらも、的確なワン・ツーやアッパーを決め、僅差の判定で
逃げ切った。5度目の防衛に失敗した原田は、過酷な減量を敗因の一
つと分析、バンタム級を諦め、一階級上のフェザー級で3度目の世界
王者を目指す事になる。この試合の3ヶ月後、アメリカからビックニュー
スが飛び込んで来る、無名の日本人ボクサー西城正三が、適地でチャ
ンピオンのラウル・ロハスを破り、世界フェザー級タイトルを奪取したの
だ、ファンは、この西城と原田の”夢の対決”を待ち望んだ。

ジョニー・ファメション×ファイティング原
昭和44年7月28日 . フェザー級
オーストラリア現地で原田挑戦 . 判定15回 ジョニー・ファメション
前回の試合からウェイト的にバンタムでは無理と判断した原田適地
に乗り込み挑戦するが判定でタイトルはとることが出来ず自分では
此れなら日本でやれば勝てると又3階級へ挑戦するが・・・・・・・

14回1分9秒、原田3階級制覇の夢消える

やはりフェザーに上がるとパンチ力が・・

ジョニー・ファメション×ファイティング原田
昭和45年1月6日 . WBC・フェザー級
東京 ・ 東京体育館 . 14回 KO . ジョニー・ファメション
60年代を代表するヒーロー原田も、グローブを置く日が来た。王者
ファメションには昨年7月、敵地オーストラリアで挑戦し3度もダウンを
与えながら、露骨な地元判定に泣いている。東京での再戦は原田に
有利と見られ、日本人初の3階級制覇が大いに期待された。しかし
この夜のファメションは、前回とは別人の様な動きを見せる。原田の
ラッシュをスピード豊かなフットワークでかわし、ワンツー、左フックで
ポイントを積み重ねる。原田の見せ場は10回、それまで何回も空を
切らされてきた右のロングフックがクロス・カウンターと成って王者の
顎を捉え、ダウンを奪ったのだ。第一戦の再現なるかと観衆は沸いた
がダメージは浅い。若い王者は、直ぐに立ち直り、12回には左フック
でダウンを奪い返す。そして14回、ファメションの猛攻に原田はロー
プ・ダウン。試合再開後、左のダブルを顔面に受けて、ロープ外に転
落し、必死に立ち上がろうとしたが、もう余力は残って居なかった。
常に前傾姿勢で戦い続けてきた名選手らしい最後だった。この3週
間後、原田は正式に引退を明らかにする。海老原に続く原田の引退
は、時代の終わりを強く印象づけた。

白井選手に始まりこの原田海老原が日本のボクシングを盛り上げて
日本人魂を我々見せて呉れたがその後この様な選手は軽量級では
出てこなかった。この当時は大変でしたね。
1.世界は一つで一番は一人しか居なかった。
2.15回迄やってスタミナの勝負のところはあり、減量すると駄目
3.Jrクラスが無く2階級3階級制覇は難しかった。

いずれにしろ未だ沢山のボクサーが居ますが此の方達が私をこの世
界に引き込んで行ったと今に成って当時を思い出す。

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